西彼杵半島(長崎県)のシシ垣

報告者:原口 聡

ここ長崎県西海市西海町中浦北郷字木場に所在する玄武岩の一つに幅約10cm角、深さ2mm程で、2行にわたり「享保七□寅年」(□は剥げ落ちて判読できない部分)と刻まれた年号が認められる。享保7年(1722年)の干支は壬寅であり、□には「壬」が刻まれていたと推測されている。

『郷村記 中浦村』(長崎歴史文化博物館蔵)に「猪留石垣之事」として「一 外海山近年猪鹿繁殖し田畠作毛相荒せしゆへ村中の者共申談享保七壬寅年六月より猪留石垣を造築す右普請成就の上ハ荒野にて田畠餘程出來可申筈にて當村より相始し處追々太田和七ツ釜夛以良瀬戸も同樣に造築す」との記事がある。このことから、猪垣の構築は中浦村から始まったことがわかり、刻字の年号とも一致する。また、大村藩の記録である『九葉実録』(大村市立図書館蔵)の享保7年6月22日条には「瀬戸ヨリ中浦ニ至マテ石砦ヲ築キ猪鹿ヲ防キ田園ヲ護ル」との記事がある。

『西彼杵半島猪垣分布調査概報』(長崎県教育委員会発行)によると猪垣は西彼杵半島の山を一周するように延長70kmにもわたり構築されたと推測されている。基点石から北東方向に伸びる石垣は、虚空蔵山の南麓を北端とし、南西に伸びる石垣は中浦北郷字狩底および椎ノ木を経て、伊佐ノ浦川上流の中浦南郷字山田、大瀬戸町雪浦河通郷字古田、長崎市上黒崎町などの地点で確認されている。

この基点石は、江戸時代における農害対策遺構としての価値から、昭和43年に長崎県有形民俗文化財として指定された。この地点は、現在西海町の太田和郷と中浦北郷の境界に位置し、当時の村境であった思われる。

「享保七□寅年」の字が刻まれた基点石

今も残る玄武石の石積み

南西に向かって伸びる石垣


【行き方】

西九州道佐世保大塔ICよりR202経由、西海橋方面へ
小迎交差点右折30分。
「ミカンドーム」(道の駅さいかい)から5分。

【問い合わせ先】

西海市教育委員会社会教育課文化班(原口聡)
 〒851-3504西海市西海町木場郷2235