復元された伊那市諏訪形地区の猪垣

報告者:蒲原 潤一 (天竜川上流河川事務所)

はじめに

 長野県伊那市諏訪形地区では、江戸時代から伝わるシシ垣を古文書などから復元し、野生生物による農作物被害が深刻化する中、歴史ある施設を学習の場として活用していく取り組みが地元の方々によって実施されています。
 この取り組みの特徴としては、復元されたシシ垣が土塁と木柵から構成されていること、過去に一度復元した木製柵が腐食したことへの対応策として主杭に擬木を使用して修復作業を施していること、その他の材料として近くの山林を手入れすることで発生した間伐材を有効活用していること、文化財としてのシシ垣の復元と実際の獣害対策としての電気柵設置とを併せて事業化して農林業振興分野の行政とタイアップして実施していることなどが挙げられます。他の地域のシシ垣の保全活用にとってもヒントとなるところが多いと考え関係者からの聞き取りや現地調査の結果から概要を報告致します。

シシ垣の概要

(案内看板の写し)

@諏訪形の猪垣跡
指 定    伊那市史跡
所 在 地  西春近諏訪形区
所 有 者  浦野静男・久保田譲・池上義郎
指定年月日  平成6年1月28日

 伊那市西山山麓には、猿、ハクビシンなどによる農作物の被害が多く見受けられるが、過去には猪や鹿による被害が非常に多く、農村ではその対策として猪垣を構築した。
 この諏訪形の猪垣は、構築された年は不明だが藤沢川から大田切川に至る標高700メートルの地域に猪避けのために作られたものの一部である。かなり大がかりな作業によって築かれはしたが、時の経過によって損傷が生じるのでしばしば修理

復元された猪垣の全景写真

が行われたようで、寛保元年(1741)と文化5年(1808)には宮田と共同して再普請が行われたことなどが古文書に記されている。そのうち文化5年諏訪形の発案で宮田三カ村 中越 下牧表木 赤木村と共同で代官に願い出て、行なった再普請は大規模なもので、全体で延べ7200人余、諏訪形だけでも延べ2600人余の人足が出て修理が行われたとある。この猪垣は、私たちの先人たちが自然災害、特に動物たちからの災害を防ごうと堅固な施設を作り、農作物を保護するために如何に闘い続けて来たかをうかがわせる貴重な遺構である。
 尚、このような猪垣は、西山山麓に多く構築されたものと思われ、各所にその形跡が認められる。

A猪垣の歴史
 私たちの先人が農作物を守るため、構築した猪垣の年代は定かでないが元禄前とも言われている。猪垣の出来る前は焚火、添水、小屋番、板叩、木柵、等で被害を防いでいた。
 諏訪形の猪垣は寛保元年(1741)今から251年前宮田と共同して修理をした記録がある、修理前の構築については現在のところ古文書がないので不明である。
 その後文化5年(1808)今から183年前、諏訪形の発案で、北割・南割・新田と協議し、なお中越・下牧・表木・赤木の同意を得て八ケ村連名で郡代、代官に願出をしている。それが許可になり諏訪形分は藤沢川〜大樋(北割界)まで18町26間(約2Km)で、その人足2,661人とある。その後度々修理をしたようだが現在の猪垣は当時のもののようである。

B猪垣改修事業
【改修の経緯】
 諏訪形の猪垣は、平成六年に伊那市教育委員会により「猪垣跡」として市史跡に指定され、平成7年諏訪形区の協力によって復元された。
 以後長い歳月の中で構築物の劣化が進み、住民の間で再構築の願いが高まってきた。折しも平成20年度から西春近地域で取り組んでいる農林水産省補助事業「農地・水・環境保全向上対策事業」により、先人が農地を農業を野生動物から守ろうと築いた歴史ある伝統的施設を次世代に残そうと、この改修工事を実施し、ここに完成をみた。

【猪垣の構造】
 平成7年に構築された猪垣は、乱杭と呼ばれる直径約15センチメートルの丸太を30センチメートル間隔に埋設してあった。
 本事業では、今後の維持管理もふまえ1メートル間隔に主杭となる「プラスチック擬木」を打ち込んだ。
 古文書にある横木を取り付け、主杭の間に約20センチメートル間隔に大小様々な間伐材を利用し縦木として不規則に配置した。そして猪垣の長さは既存の10メートルから40メートルに延長改修した。

平成21年11月 西春近地域の環境をよくする会
諏訪形区猪垣改修委員会

終わりに

 平成25年3月、以前から気になっていた当該シシ垣の復元経緯について、諏訪形区猪垣改修委員会のメンバーであり、復元されたシシ垣の近くにお住まいの酒井卓実氏からお聞きすることができました。関連する資料を多く頂戴しておきながら、当方の不精のため本報ではその一部のみしか触れていません。歴史を大切にする地元の方々の熱意によって今後とも当該シシ垣が適切に保全活用されることをお祈り致します。
 伊那西部広域農道からは誘導看板も配備されており迷うことなく辿り着くことができます。江戸時代、藤沢川から太田切川までの山麓に南北にわたって約6kmにわたって築かれたシシ垣は開通から30年を迎えた中央自動車道のルートと並行する部分が多く、復元猪垣については中央道の215kmポストから西側の日本アルプス方面をごらんいただければ一瞥することができます。
 一連のシシ垣全体についての分布や経緯等を記載している文献としては、向山雅重著『伊那農村誌』、『宮田村文化財マップ』、『宮田村誌(上巻)』、野溝利雄著『諏訪形の猪垣考』(伊那路第38巻第1号)などがあります。

農道からの誘導看板

猪垣の構造(『宮田村誌(上巻)』p686)

宮田村諏訪形村の猪垣(『宮田村誌(上巻)』p689)

 最後になりますが、国土交通省中部地方整備局天竜川上流河川事務所では、地域の有識者のご協力をいただいて平成24年度から「人と暮らしの伊那谷遺産プロジェクト」を推進しています。土木のものづくりによって工夫して生活を営んできた伊那谷地域における先人の足跡から「地域を学び地域を盛り上げる」ことを目指した取り組みです。本報で紹介しました伊那市諏訪形の猪垣は先般遺産に選定され、プロジェクトを紹介するホームページ上でもその概要をご覧いただくことが可能です。機会があれば是非一度ご覧下さい。
 http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/think/
          heritage/html/list_index.html